ゼミ合宿から帰ってきた。
合宿についてはまあ書きたいのもやまやまだがちょっと葛藤もあり書かないことにする。
とても楽しかったんだ。
僕の楽しい話なんてききたくもないと思われるので書かない。
久々に楽しいという感情を取り戻した気がした。
良き思い出は良き思い出のまま忘れてしまいたいと思う気持ちはおかしいだろうか。
良き思い出が状況次第で悪い思い出になってしまうその前に、忘れ去ってしまいたいと思う気持ちは不自然だろうか。
根暗だろうか。
ひねくれているのだろうか。
"紳士"はそんな癖捨てた方がいいのかね。
忘れたいなんて、良き思い出に関わった人に対して失礼かね。
以下の内容は、ゼミ合宿の中で言おうか迷ったが結局言えなかったことである。
プロアマという話は別にして、僕は曲を作るにしても文を書くにしても芸術家という意識を持っている。
しかし僕の理想系は"アーティスト"ではなく"アート"そのものなのである。
アートを作り出す者ではなく、僕自身がアートそのものでありたいと思い、意識している。
自分がアートとなれば、自らの身を削って出せば一つの芸術作品ができるという感覚だ。
創造ではなく、そのまま削って出すイメージ。
つまりありのままの自分を表現したらあらアートになっちゃいましたというのが理想なのだ。
ここで僕が注意したいのは、アートとはあくまでアートなのであって「変だからアート」ということにはならない、というこだ。
たとえ変でも、「スゴく」なければアートにはならない。
秀でるものがなければ意味がないんだ。
これは、人と変わっていたいというよりもむしろ人より勝っていたいという意識なんだ。
自分をアートとして意識することで、詞の書き方や文の書き方も変わってきた。
アーティストとしての意識では、あるメッセージがあってそれを人びとにわからせ、共感させるイメージ。
アートとしての意識では、メッセージである必要がないしただ人びとに「すげー」といったような感動を与えればよい。
ただし、ありのままの自分を提示する。
僕にとっては歌詞を書くこともブログにちょっとした小説を載せることも普段どおりの記事を書くことも、大して変わらない。
それはアートの意識があるからで、面白さやメッセージ性で勝負をしているのではなく、ただ単に自分をそのまま映し出すことで自分の存在をアートとして評価されようとしているのだ。
小説だって歌詞だっていつも真実というわけではないが、そこには僕の性格や心情を映し出しているつもりなのである。
気付いたかな?
というような話をゼミでしようかとしたんだがちょっと感覚がよくわかりにくいだろうと思われるし、アートとしての評価どころかバカなんじゃないのと言われそうだったのでやめたんだ。
本当は言う機会がなかったというのが一番大きな原因だが。
しかしこの手の話はこのブログで何度もしていますよね?
誰が読んでるんだか知らないが、僕に対する評価の視点を変えてこのブログを見てもらいたい。