何故大量の牛の乳が僕の部屋の天井に…??
僕は乳を搾ってみようと、試しに一つの乳に触れようとした。
背が届かず搾れそうにないのでベッドにのぼってみたのだが、今度は届いたはいいものの、搾っても搾っても乳が出なかった。
するとその時不思議なことに、部屋の壁全体から、何者かが喋る声が聞こえてきた。
おい若造よく聞け、私は牛だ。
若造は今私の乳を絞ろうとした、しかし乳は出なかった。
何故かわかるか?
僕はわかりませんと答えた。
何故かがわからないというより何が何だかわからなかった。
若造、お前は昔の思い出をずるずると引きずっている。
男ならすっぱり忘れてしまうか、良き思いでとして美しく胸にしまっておくのだ。
それを若造、お前という奴は、中途半端に忘れたり思い出したり…。
過去を否定的に捉えているんなら、ちょこちょこ思い出したりしなきゃいいじゃないか。
選ぶんだ若造、過去を肯定的に捉えるか、すっぱり忘れてしまうか。
それが出来れば、私の乳はどぴゅっと出るぞ。
僕は、乳を出したいと思った。
確かにここまでどっち付かずだったから、泥沼から抜け出せなかったのかも知れない。
この牛の乳は、僕の無機質な生活に変化をもたらすきっかけとなってくれるかも知れない。
その日から僕は、過去を全て捨てる努力をした。
僕に幸せな日々などなかったのだと思うようにした。
過去の自分と現在の自分とを比べないように意識した。
過去の人を、顔も声も名前も、思い出せないようにしようと意識した。
そして毎晩家に帰ると、ベッドにのぼって天井の乳を搾った。
しかし何も出なかった。
僕は、そのうち過去を捨てることを諦めた。
今度は、過去を肯定的に捉えようと頑張ってみた。
それは、「あの頃は良かったナァ」と思うことではない。
あの恋愛から僕は多くを得た。
僕のネガティブな性格も少しは直った。
あの人だって得られるものは多かったはずだ。
終わり方だって、憎んで終わったわけじゃない。
綺麗に終わったはずだ。
あの人は僕と別れた方が幸せになれるんだ。
だったらそれは良かったことじゃないか。
そんなことをいろいろ思ってみたが、それでも乳は出なかった。
僕はもうこれ以上物事を肯定的に考えることは不可能だと思った。
それから僕は、あまり考えなくなった。
生きている心地はしないが、別に死んでいるような感じはしない。
物事をいい方向にも悪い方向にも考えなくなった。
牛の乳を絞ろうともしなくなった。
無機質なことに変わりはないが、あの精神病のごとき倦怠感はなくなった。
一つの動作に対する億劫な心構えが弱まった。
僕はほんの少し変わった。
でも僕が求めていた変化ってこれだったのか??
ほんの少しだけ気持ちが落ち着いて、これで終わって良いのか??
部屋の壁に話し掛けても、牛の声は聞こえない。
もちろん牛の乳は出ないまま。
そんな中ある時、僕宛てに手紙が来た。
彼女だった。
彼女は僕と同い年だからまだ学生だというのに、社会人と結婚するのだそうだ。
彼女は手紙の中で、「ありがとう」とたくさん言っていた。
それから、結婚式にも招待してくれた。
彼女の中で僕はもう消化されたんだろう。
だからそういうことが出来るんだ。
僕は不思議と迷わなかった。
彼女と別れて今初めて成長した気がした。
もう、気持ちは一つだ。
翌日彼女に返信の手紙を出して、僕は牛の乳を搾ってみた。
ちょうどコーンフレークを食べたかったんだ。
雨だったけど、それは久しぶりにさわやかな朝だった。
(完)