「人にやさしく」という言葉が好きだ。
言うまでもなくブルーハーツの代表曲なわけだけど、本当にこの曲が好きだ。
ヒロトみたいな人間が、まさか軽々しく人に「ガンバレ」なんて言えるわけもないが、この曲では惜し気もなく「ガンバレ!」と言っている。
それも、人に向けて「ガンバレ」と言っているのではなくて、ヒロト自身に向けて「ガンバレ」と言っているようにしか聞こえないから、「ガンバレ」の重みが違うよなぁと思うのだ。
人にやさしく してもらえないんだね
僕が言ってやる
でっかい声で言ってやる
ガンバレって言ってやる
聞こえるかい?
「ガンバレ」
「人にやさしく」に感銘を受けたのが中学生の時で、その感動を真空パックに詰めたまま今まで保存してきたから、今もこうしてブログに好きな歌詞を載せるというまるで中学生みたいなことが出来るわけである。
だが「人にやさしく」しようというのは僕の人生における目標なのであって、それだけは中学生だろうと何だろうと、ちゃんとやってやるぞという気でいるのだ。
ただ自分を殺すことはできないというのが結構大きな問題であって、なかなか人にやさしくできないのである。
つまり自分を犠牲にして人にやさしくするということが、どうしても気乗りしないのであって、常に自分の行為は自分の守備範囲内でなければ上手くやりくりできないというのが、僕なのだ。
割り切って「見返り」のために人にやさしくすることができれば、身が入るのかもしれないけど、それでは本末転倒である。
かといってある程度の見返りがないと、自分の為す行為全てに自信がなくなり不安になる。
「人にやさしく」したいのは「人にやさしく」されたいからあるいは「人にやさしく」している自分に自惚れたいから。
「人にやさしく」されたきゃ「人にやさしく」しろ、というのはまあそんなもんなのかもしれないけれど、乱暴な論理でもあると思う。
特に僕みたいなのだと、価値観も人とずれる傾向があるらしいし、技術的にも道徳的にも壁があってなかなか難しいなと思う。
環境もまたしかり。
つまり自分の守備範囲内でいくら善意を尽くしても伝わらない率が高いし、性格が不器用だからどう人にやさしくしていいかわからないし、あまり尽力すると自分が何をしているのかわからなくなるのだ。
こうして色々考えるうちに、だんだん自分が嫌いになってくる。
生きづらい自分は嫌いだ。