何が不幸かってのは比較的わかりやすいことだけど、何が幸せかってことはわかりづらい。
もしかしたらその時点では判断することができないもので、何年かしてみないと、下手したら死んでからでないと幸せだったかどうかわからないものなのかもしれない。
また、もちろんその判断は他人がすべきものではない。
だいたいの人間は幸せになるために、幸せに生きるために日々人生を送ろうとしているだろうと思う。
そしてこの僕も少し前までは何とか幸せになってやろうともがいていた。
「幸せは手に入れようとするんじゃないんだよ、幸せを感じることの出来る心を手に入れるんだよ」
という甲本ヒロトの言葉は美しく印象的だが、どうも僕には受け入れられなかった。
何でもかんでも幸せだと思い込もうとするのは妥協しているようで嫌だ、とかなり低い次元で概念を捉えてその言葉を拒んだ(今でも変わらない)。
少なくともここ数日間の僕は不幸ではなかった。
そりゃもちろん街で仲良く歩く高校生のカップルを見ては腹が立ったし、夜中に突然不安になって家の中で独り怯えることはあったが、それは日常茶飯事だし決して癒えることのない一生傷のせいだと諦めがついているので(というのは後になってからじゃないと言えないことだが)、別に不幸だとは思わなかった。
「あれは幸せでこれは不幸だ」
などといちいち確認している時期というのは自分が不幸だと思っている証拠なのではないかと思う。
さほど不幸でないときは何が幸せで何が不幸かなんて考えたりしないものだ。
考えても、そんなに深くまでもぐりこんだりはしない。
そう考えていくと幸せってのは不幸じゃないことなのではないかと思う。
幸福論を二元論で片付けるのはいかにも軽率なような気がするけども、事実幸せなやつってのは自分が幸せであることさえ気付いていないくらい幸せだったりするわけで、でも不幸な人間は自分のことを不幸だと思っていて、だから要するに不幸な人以外は幸せなんじゃないかって思えるんだよ。
しかしそう考えてしまうと今の僕は幸せになってしまうわけで、それはとても気持ちが悪い。
今まで必死にもがいて苦しみながら望み求めていた幸せってコレ??
現在の僕の不幸じゃない状態、というか比較的精神が安定している状態ってのは、数々の妥協の結果こうなったものだと思う。
あれもダメ、これもダメ、それも諦めなさい、そうやってたくさんの出来事が僕を否定して、あらゆることを許容せざるをえなくなった。
そんなことを繰り返していくうちに、以前より多少心が広くなったと思う(それでもまだ許せないものはたくさんあるし、手に入れたいものもたくさんある)。
人は諦めることによって成長するんだ。
甘やかされてばかりじゃいつまでたっても大人になれないのだ。
と自分に甘い僕が言ってもあまり説得力はないのだが。
話が少し脱線したのでもとに戻したいと思う。
とにかく挫折と妥協の繰り返しによって生まれた現状を、幸せと名づけるのはどうも嫌だ。
「不幸じゃないだけ」にしておきたい。
本当は高級ステーキが食べたかったけど、それはどうしても無理みたいなのであんぱんで我慢します。
その辺の雑草とかじゃないだけまだ幸せでしょ?
それにお腹に入っちゃえばみんな同じで、ほうらあんぱんでも幸せなんだよ。
というようなもんであって。
あんぱんはうまいからいいけどね。
そうなるとたちまち最初の方で力説しかけた「幸せとは、不幸じゃないこと」説との間に矛盾が発生して、僕の頭がパンクする。
僕は一体いつになったら
「結局幸せについて考えるのって無駄なことなんだな」
と気付いてくれるんだろうか。