俺の生きている世界とみんなの生きている世界は、似ているようで全く違うんだ。
俺は今までてっきり、みんなと同じ世の中に生きていると思っていたんだけど、それは物理的事実なだけであって俺は俺の人生を歩んでるしみんなはみんなの人生を歩んでるし。
そう、俺でしか生きたことないから他の人の人生なんて知らない。
作詞だとか作曲だとか普通の人には出来ないことが、俺には出来る。
それはそういう設定で生まれてきただけだから別にフシギな事ではない。
人とコミュニケーションをとって分かり合うという、みんなにとって当たり前のことが俺には出来ない。
それもそういう設定で生まれてきただけで、当たり前のことなんだ。
サクセスやるときに最初から「センス×」がついてるようなもんだ。
もしくは俺の生きている世界は「体験版」で、「ここから先は本編でお楽しみください」なのかもしれない。
でも今ここで生きている、ここでブログを書いているこの俺は、「体験版」に生まれてきた俺なので「本編でお楽しみ」できないのだ。
一番の醍醐味(つまり人との深い関わりさ)が本編でしか味わうことが出来ないのに、たまたま体験版に生まれてきたために苦しみを味わっているのだ。
ここまで生きてきて、ようやく体験版であることに気が付いた。
本編の俺は充実していただろうか。
小さい頃からえらく寂しがり屋で人にかまってもらいたくて、注目を浴びるために人と違うことをしてきた。
人と違う、おかしなことをやってればかまってもらえると信じていた。
それがいつの間にかどんどんどんどん人とずれていって、取り返しのつかないところまでみんなと離れていって、結局孤独を噛みしめる羽目になっている。
おお、こりゃ笑い話だ。
それは確かに物理的孤独をなくすことはできるが、メンタル面での孤独は広がるばかりだ。
おお、こりゃ笑い話だ。
お前さんはほんとに「生きるギャグ」だよ。
はあ大傑作だ。
スドウ君の一番最初のブログを読ませてもらった。
懐かしいな。
あの頃は何か二人とも青くて角ばっててバカみたいで美しかったな。
自分のブログでも何度か批判してしまってすまないね。
彼が俺に与えた影響は想像以上に大きい。
高校一年二年と、「悩む」という作業を知らなかった俺はただひたすらストレスを溜め込む毎日を過ごしていたが、彼と同じクラスになり話すようになりブログを見るようになり、「悩む」ということを覚えた。
それは俺の人生の上で(まだ人生語れるような年齢ではないが)大きな価値を持っている。
悩むことを知り、吐き出すことを知り、高校生活最後の一年は他の二年とはまったく異なる一年間であり、半分を受験勉強に費やしたものの一番充実した一年だったといえるかもしれない。
ほんとにほんとに感謝してるよ。
欝だといわれようが暗いといわれようが病んでるといわれようが、悩むことはほんとにすばらしいことだなぁ
と昨日の夜中3時にスドウ君のブログをパソコンを膝の上においてねっころがりながら見ていたら、急に足がつった。
一瞬スドウ君を恨みそうになった。