「いちたすいち」
は
「に」
である。
二十歳にもなった今だからこそついそう答えてしまうけれど、果たしてそれは本当に正しいことだろうか。
確かに僕たちは小学生の時、「1+1=2」であると教わった。
「ここにりんごがひとつあります、もうひとつりんごをもってくると、さああわせていくつになるでしょう」
と聞かれて、
「ふたつ~~!」
と答える、というようなくだりを誰でもやったはずだ。
しかし「1+1=2」に違いないが、「りんごひとつとりんごもうひとつをあわせてりんごふたつ」というのは必ずしも正解ではない。
もうひとつ追加したりんごが傷だらけだったら、商品価値はなくなる。
農家のおじさんは業者にりんごをひとつだけしか買ってもらえないだろう。
商品価値という観点から見ると「りんごひとつとりんごもうひとつをあわせてりんごひとつ」になるのだ。
もうひとつ追加したりんごの種を植えて育てたらりんごが倍増しちゃいました、なんていう少々強引な屁理屈だってできる。
しかし学校のテストではそういう屁理屈は通用しない。
ひとつのものにひとつを足すとふたつになるのが正解であって、それ以外は不正解だ。
どんな屁理屈を並べても、いくつ屁理屈を並べても、「1+1=2」が正しくてそれ以外は間違っているのだ。
算数的・数学的に見てみると確かに「1+1=2」なのである。
「1+1=2」が正しいのが数学という学問であり、それが前提でないと、何もできなくなってしまうのが数学なのだ。
「1+1は2じゃないかもしれない」なんて言ったら、因数分解も微分積分もできない。
「1+1」が「2」になる、ということをあらかじめ決め付けてしまった方が、物事を考える時に便利だから、こういうルールを作ったのである。
しかし「1+1」が必ず「2」になるのは算数や数学においての話である。
それ以外の場面においてこの概念が根付くことは、見逃していいことなのだろうか。
「いちたすいちは?」と聞かれて、反射的に、常識的に「2」と答えてしまうのは、完全に学校で習った算数や数学の思考を優先的に用いているからである。
だが「いちたすいち」は無条件に「に」になるのではない。
「に」になるのは算数・数学の思考においての話だ。
実際の世の中では「いちたすいち」が「いち」になることも「さん」以上になることも多々ある。
「いち」より「に」の方が大きい、小さいより大きい方がいい、そういうことをプログラミングのように教育していくから、「貧乏より金持ちの方がいいに決まっている」というような発想が何の迷いもなく出てくるのではないだろうか。
30本シュートを打ってひとつもゴールに入らなかったチームより、シュートをひとつも打たなかったが相手のミスで一点入れたチームの方が強いのだと、「0対1」という点数だけ見て言い切れるのか。
「1+1=2」だという授業ももちろん必要だが、「1+1は2じゃないかもしれないよ」という授業もあった方が、より物事を多角的にとらえることができるようになるのではないか。
「1+1は2とは限らない」ということを先生が教える授業ではなく、「どういう時に1+1は2ではないのか」を生徒に尋ねる授業だ。
世の中にそういう発想のできる人間がもっと増えてくれないと、僕はいつまでもただの「屁理屈人間」でなければならなくなるのだ。