結論を言うと、それは賢い人の「全部自分」論によって解決された。
結局僕はブルーハーツの純粋さと奥田民生のマイペースさに憧れて、「純粋」とか「素直」とか「誠実」とか「ありのまま」とか「自然」とか「飾りっ気のなさ」とかそういうものをただただ求めていただけだった。
それがパーフェクトな理想像であって、それらを備えていれば人に認めてもらえたりかまってもらえたり好かれたりするもんだと思っていた。
嫌われたり見捨てられるのを恐れてそれらを無理に手に入れようとしたしアピールもした。
パーフェクトに美しい人間だとか要するに自分に嘘をつかないような人間を目指すということそれ自体やっぱり無茶があったのだ。
正直言って、難しくて自分でも何を言ってるのかよくわからない。
考えたこと言えてるかどうかもわからない。
ちょっと整理しよう。
美しい自分、つまり自分に嘘をつかない、ありのままの自分、純粋な自分。
それだけが他人に見てもらえると思っていたのだ。
汚い自分、つまり自分に嘘をつく、創造された自分。
それは見てもらってもしょうがないと思っていたわけで。
でも結局美しかろうと汚かろうと自分は自分なわけで。
見てくれる人は美しい自分も汚い自分もちゃんと見てくれる、それら全部含めて「自分」のことを見てくれると信じるしかない。
今だにこうして他人の目を気にしている自分がどうしようもなく嫌いで恥ずかしいけど、それさえ僕の一部だし、そうやって自分を総合して見てくれる人がいると信じた方がいいのかも知れない。
また一つニキビが治った気がする。