のなめブログ

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法律の意義

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ゼミの課題、「書評」に追われていてなかなかブログを更新できなかった俺。

書評が何なのかいまいちわからない。

読書感想文か?

とにかく俺は論文を書いた。

といっても書き方を全く知らないので、前回提出したものは型破りすぎたようで、Cをつけられて返ってきた。

次はもっとフォーマルに。

って書かれた。

正しいフォームがわからないので、いつものブログのような文体になってしまったがまあいいか!

だいたい大学の評価って何段階なんだ?

というわけで読みたかったら読んでほしい。

で評価して添削してほしい。

読み返して初めて気付いたんだが話の筋は通っていない。

この文章はある本の中の文章を読んだ上での書評なので、始めにその本に書かれてあったことをちょっと教えます。

9月11日にテロがあったじゃないですか。

でそのときにFBIさんがアメリカに住むアラブ系の外国人に、「ハイジャック犯に共感を覚えるか」「テロに関する犯罪行為を知っているか」などと事情聴取を行ったらしいのですね。

でもアメリカの中でもちょっと浮いてる州、オレゴン州ポートランド市の警察はFBIに協力を頼まれたけど断ったらしいんですよ。

米国憲法によって人権を守ったんですね。

でやっぱりこういうときに法律を軽視しちゃいかんっていう話ね。

「法律の意義」

オレゴン州ポートランド市の警察が、州法に従ってFBIによるイスラム教徒への事情聴取への協力を断ったという話には、法律の存在意義やその重要性について考えさせられる。

 ポートランド署のマーク・クロカー署長はFBIへの協力を断ることで、結果的に米国に居住するアラブ諸国からの留学生の人権を守ることになった。いや、正確に言えば協力をしなかっただけで、FBIは独自で事情聴取をすることになったので完全に人権を守ることが出来たわけではないが、その姿勢を見せることで、法律の権威の強さを示すことが出来た。このことは、いくら戦争だとかテロだとか緊急事態だからといって、法律を軽視したり無視したりすることはあってはならない、ということを教えてくれる。しかし、今回はそのように状況に応じて、法律を差し置いて応対をすることがよくないことであると認識されるようなケースであったが(もちろんクロカー署長の決断に対する批判は多くあったが)、法律ばかりに固執していてもいけないのではないだろうか?

 あるテレビ番組で見たのだが、極端な話現在の日本国憲法では北朝鮮アメリカに向けてミサイルを発射したとき、たとえそのミサイルを撃ち落すことが出来る国が日本しかない、という場合でも撃ち落してはいけないのだそうだ。ただ黙ってミサイルが通り過ぎるのを見ているしかないのだ。そんな緊急事態に「法律は大事ですから」などと言って本当に日本が何もしなかったら、アメリカで大量の死亡者が出て、日本は世界から多くの批判を受けるに違いない。だからこういうときに法律に縛られていては何も出来ないのである。日本政府は集団的自衛権について、国連憲章上「持っている」が日本国憲法上「行使できない」という見解を示している。「あなたが攻撃されてもわたしは協力できないけど、わたしが攻撃されたときは守ってくださいね」ということだ。そんなおいしい話が許されればいいのだが、もちろん許されるわけがない。日本の憲法は今、昔から守ってきたものを捨てて変わるべきなのだろう。そういうところまで来ている。

 と改憲の必要性を感じてはいるのだが、個人的に言うと実は改憲に反対である。日本国憲法ほど平和な憲法が他にどこにあるだろうか。第9条は全世界の理想でありお手本にすべきであり、爆笑問題太田光が言うように世界遺産にでもして絶対に破壊せずにいつまでも守っていかなければならないものなのだ。日本国憲法を改正するということはつまり第9条を破壊することであり(そのためにもめているのだから)、日本の誇りを一つ失うことになるのだ。現実的に考えたらとても難しいことなのだが、第9条が破壊されるのは本当にもったいないし、こわい。

 改憲に反対をする理由はもう一つあって、あまりコロコロ法律を変えられると法律の威厳が薄れてきてしまうということだ。「今回は仕方ないから」と言って一度法律を変えてしまうと、いちいち何かあるたびにまた「仕方ない」と法律を変えられてしまうかもしれない。日本がそんなだらしない国家ではないと信じているのだが有り得ない話ではない。そうなると堅固な法律がなかなか定着しないのではないか。しかしやはり一番の理想は、法律を必要としない国家である。みんなが道徳を守るから法律の必要性がない国家。そもそも法律の根底には道徳があるので、モラルさえしっかりしていれば、ルールなんて必要ないのである。

かったりー