のなめブログ

noNameBlog

とあるブログに、生と死についてちょっと書いてあったからこれを機会に俺も書いてみる。

死んでしまった人は、もういないけど、死んでしまった人が身につけていたものは残るんだよね。服とか。靴下とか。時計とか。そういったものをこの間、故人の弟であるうちの父親がもらってきて身につけているんだけど、どんな気持ちで身につけるんだろう。たぶん、単に気味が悪いとかじゃなくて、不思議だよね。って、身近にこういうことがないとわかんないことかもしんないけど。今父親が腕にはめている腕時計は2、3ヵ月前にお兄さんにプレゼントしたものなのに、そのお兄さんはもらってから何日か経ったのちにこの世からいなくなってしまった。そして父親がはめている。俺だったらそんな時計はめられないよ(実際はめてみたんだけどさ)。その話をきいただけで泣きそうだった。時計残ってんのに持ち主いないんだよ。当たり前だけどこの境遇にいると不思議に感じられるんだよね。洋服なんかはニオイまで残ってたんじゃないか?(もう線香のニオイが染み付いちゃってわかんなくなっちゃったけど)

生きている間は脇役だった時計やら洋服やらニオイやらが形を残して主役は天国にいってしまうんだ。やりきれなくなる。

天国にいってしまうんだとか言っちゃったけど、本当はどこにも行かないってこと、みんな気付いているはずだ。魂が天国から見守るとかいうのも嘘だ。息が途絶えたとき、その人はいるけどもう魂はない。焼かれたとき、その人も魂も完全になくなってしまうのだ。お骨なんてもうその人ではない。

話ずれるけど、人にすぐ「死ね」という人は憎い。胸が痛くなる。冗談で言っても面白くないし、俺の寿命が縮まる。本当にそう思ってるわけじゃないんだからいいじゃんという問題ではない。その単語を口にすること自体が生きている者としてすべきことではないと思いますよ。俺がその言葉を口に出すなと忠告するとみんなはウケをとっているんだと思って笑うけど、俺は本当に胸が痛んでいるのだ。この前ある先生が生徒に対して冗談で「殺す」と言った時には失望した。

話戻るけど、おじが逝去したとき、俺はふと、親が死んだときに俺は何の後悔もせずに親を送り出すことが出来るのだろうかと考えた。そして、親は何の心配もせず、安心して死ぬことが出来るだろうかと考えた。俺はこれまでに何一つ親孝行というものをしてきていない。逆に迷惑ばかりかけている。子供なんだから当たり前と人は言うけれど、それでもなんか一つでも親孝行できたらなと思う。でも具体的に何したらいいかわかんないよね。とりあえずいい大学に入ればいいのかな…今は。

俺はおじが亡くなってから死について深く考えるようになったんだけど、それでもそれをねたにブログを書くことをためらってきた。おじに悪い気がした。でもそれでも自分の考えは文章にしたくて思い切って今日ブログに書いてみたんだけど、何かうまく考えがまとまんないまま混沌とした文章になってしまったなぁ…。今日は自分でNGワードを連発するたびにどれだけ胸が痛んだか…。

またね。